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考えるのではなく感じる事

僕がはじめて大宮ろう学校を訪れてから2年が経ちます。
その間、僕はできるだけ学校の外からいろんなものを持ち込んで子供たちに届け、
子供たちから受け取ったものを学校の外に運んできました。

僕はCODA(聞こえない両親に生まれた子供)ということで
ろうあ者、健聴者の両方に話がしやすいということもあって
比較的、いろんな人が僕の話を聞き、感じた事を言ってくれます。

そこで僕が毎回思う事は
 
頭で理解できる事、言葉が伝える事はいつだってほんの少し
ということ
 
 
ある成人ろうあ者は
「健聴者は何でも出来るけど、ろうあ者は何もやらせてもらえない」
と僕に言いました。
 
あるろうあ者の先生はろう学校の生徒たちに
「健聴者に負けるな」
と言いました。
 
ある健聴者の方は
「手話が分からないからろうあ者とは話せない」
と言いました。
 
また、ある健聴者は
「健聴者もろうあ者も聞こえるか聞こえないか以外は同じ」
と言いました。
 

誰のどの言葉にも悪意は感じなかったし
真剣に考えて話してくれている事が伝わってきます。
でも僕はそれぞれの考えに納得しつつも何か違和感も感じます。 
多分、それぞれが間違ってはいなくて、そしてそれぞれが正しくはない。
何となくそう感じます。
それはきっと僕自身もよくわかってないからなんだと思います。
僕自身が健聴者代表ではないし、
CODAだからといってろうあ者の気持ちを代弁できるわけではないので、
僕はただ個人的な思いと経験を組み合わせて想像するだけ。

僕が想像するのは
「人と人の間の境界線」です。

境界線とは何だろう?
性別?
国籍?
顔立ち?
年齢?
障害?
 
心優しい人はおそらく「そんな境界線はない」と言ってくれるでしょうが、
実際の現実社会には無数の境界線が張り巡らされています。
「「差別」と「区別」をごちゃ混ぜにするな」と言う人もいますが、
「区別」が「差別」に感じられたら、それはどうなんだろう、、、と。
僕はそこに言葉の限界を感じるのです。
言葉は一見シンプルなように見えますが実はそれはあくまで「共通のルール」の上でのみ成立する事。
例えば「日本語」や「手話」という大まかな「共通のルール」の中にさらに細かい「ルール」があり、
「標準語」「東京弁」「大阪弁」「九州弁」、、。
「日本手話」「日本語対応手話」「中間手話」「ホームサイン」などなど、、。
社会的な共感を得るためには複数の「ルール」を身につけることが必至です。
でも、それはあくまで「社会的な共感を得る」と言う目的があればこそ。

人は誰も「社会的」にではなく「個人的」に他人と繋がり、共感を得ながら生活をします。
その「個人的」な繋がりが広がっていく中で「社会的」な繋がりを見つける、あるいは気付くんだと思います。

「まずは「個人的」な繋がりから」

僕は言葉に頼らない共感を模索します。

言葉に頼らないとは「言葉」を排除する事ではなく、
生身の人間が発し、生身の人間が感知する「感覚的」な共感。

そんな“感覚的な共感”を子供たちに経験させてあげたいなぁって思ってます。


2006-09-28 17:18  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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